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三村京子 様のブログより(4月26日)

 

 

白くはかなげであやうくもろい、

おもいがつのってつのってそれが速くて速くて、全身にちからをこめて

どこまでも走れる、といって、

足を踏みしめたはずなのにどうしてこんなちっぽけな少女のからだの

檻のなか。

行き止まりのよわいからだ、孤りで身悶えることしかできない無力の。

軋み、静脈がきれる。血。死んだもの。

少女のからだが、せかいを受け止めてしまったら、その歪みに引き裂かれて

廃墟になってしまうのだろうか、それでもあいしぬいたほうが、少女には幸せだったのだろうか。

 

 

むじゅんを、裂け目をひっくるめて驀進してしまう、驀進すること。芸。

芸など、“ただやるだけ”なのだ。ただ貫き通した人がそこにいること。

石ころのように。

そのとき、じぶんの体が誰のものなのか、ただの“モノ”なのか、は、曖昧になる。

信じるに足るのは、ただそこに在り続けているモノとしての体だけかもしれない。

 

 

「VEIN-静脈-」

 

互いを救い合うことのできない、けれどあいしあいぬいたのだろう

男と少女。

にんげんは絶望をはらんでいる。無力であること。

そしてにんげんは演じる。

なぜ、あんなにも人形に感情や思考があるようにみえるのだろう。

演じること。

自己を他者化することで、モノだったじぶんに舞台上で気づくときに、

演者は救われる。

 

 

そして岡本さんは「小町」や「清姫」という

日本的な演目で世界的にも有名になったのに、

この「vein」という現代的な新境地の演目をうちだし、

むしろ絶望に上塗りをするように、演じるたびに痛みをふやすことを選んだ。

 

 

そのすがたを作品化して伝えることで、

芸にいきた自身の生涯を救済したようにみえた。

しかも例外的に、この遺作は、映画というかたちで。

「舞台と観客」による緊張感の次元ではいいつくせないような、

もっと速い、危ない場所で、演じてみせたのだろう。

大丈夫、へいきさ、と。

 

 

『vein』ラスト、渡邊監督の「意思」によって、

演じていない、岡本さんとしての岡本さんの顔が映される。

映画は生きている。だから、ともに生きてくれる。

わたしはひとりで歩いているのではない。

渡邊監督が手渡してくれたもの。

 

 

「人形のいる風景〜ドキュメント・オブ・百鬼どんどろ〜」

 

信州伊那谷にある、「どんどろハウス」の風情。

手作りベースで表現芸術活動をしているひとの

自己運営の構造のすがすがしさ、やさしさ、つよさ。

そこにあるささやかだけれど確実な仲間(お弟子たち)との共同性。

 

 

等身大人形の第一人者といわれる。

人形の遣い手も黒衣としてではなく、

演技者として舞台に加わる独特の形態を用いた表現。

ヨーロッパでは「日本の伝統を基盤にした独自の表現」と評された。

74年よりテレビ人形劇などの人形製作のかたわら、

自作の等身大人形をつかったパフォーマンスを都内小劇場、街頭などで上演。

80年より「百鬼人形芝居どんどろ」と改名し、

荷車を引いて芝居道具、生活道具をつんで歩く旅芸人生活を開始。

野宿、自炊の生活をしながら神社の境内等で丸太小屋を掛けての

見せ物人形芝居を展開。6年続ける。

86年信州伊那谷に移住。

「百鬼どんどろ」は、創設者、岡本芳一によって創作されたオリジナルなもので、

人形劇、舞踊、パントマイムなどすべての既存ジャンルに属さない。

物語性よりも、どちらが人間で、どちらが人形なのかわからない、

人形と人間がおりなす錯綜のなかで

人形そのもののもつ不思議な魅力を引き出すことにより、

普遍的な人間の内面世界、あるいは幻想的な妖美の世界を描き出している。

最近では瀬々敬久監督『ヘヴンズストーリー』に出演し話題に。

とくにそのなかでの女の人形と、人形遣いとの交接の演技が印象深い。

 

 

オリジナルジャンルの、細くて、ちからづよくて、幽玄な表現を静かに

たしかにつらぬいたひとが

同じ時代の日本にいた事実に、救われる。

『人形のいる風景』は舞台裏のインタビューをはじめとし、

多様な取材が盛り込まれた、岡本芳一の存在を伝える貴重な

ドキュメンタリーフィルム。

岡本さんは“ただやった”のだから、わたしもただ生きなければ、

ともおもった。

 

 

『vein-静脈-』は、球体関節人形、包帯、少女陵辱などの要素をもち、

雪原、トンネル、ふるびた人形工房を舞台に、

男女混成アリア、激しい独奏バイオリンにのせて紡がれる、台詞の無い、芸術映画。

これは、身体と相即した強靭な精神性を

みごとに芸へと昇華された岡本さんと、あまりにもへだたっている

現代の、

多量の情報で病的なまでに混沌とし、

シニカルさや虚無や憂鬱が蔓延した環境で、自己の作り直しを

余儀なくされている者への、

対話、連接でもあったように感じた。

 

 

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